日常に生きる武士道 ― 克己心と回復力、そして品格ある生き方 ―

第一章 武士道とは何か

― 葉隠の歴史と現代解釈


はじめに

葉隠はしばしば、

「武士道とは死ぬことと見つけたり」

という言葉で知られています。

しかし、この言葉だけが独り歩きし、葉隠そのものが誤解されていることも少なくありません。

私自身、長年にわたり禅、心理療法、トラウマ回復、そして人の成長について学んできました。その中で改めて葉隠に触れたとき、私が受け取ったものは死の思想ではなく、「どのように生きるか」という問いでした。

葉隠は歴史上の武士だけのための書物ではありません。

現代を生きる私たちにとっても、自分自身との向き合い方、人との関わり方、そして人生に対する姿勢について多くの示唆を与えてくれます。

本章では、葉隠の歴史的背景と、その中に込められた武士道の考え方について見ていきたいと思います。

葉隠とは何か

葉隠は十八世紀初頭に成立した武士道書であり、佐賀藩士であった山本常朝の語録を田代陣基が筆録したものとされています(Yamamoto, 1979)。

正式には『葉隠聞書』と呼ばれています。

当時の日本は江戸時代でした。

戦国時代のような大規模な戦乱はすでに終わり、多くの武士は実際の戦場で戦う機会を失っていました。

平和な時代が続く中で、新たな問いが生まれます。

武士とは何か。

武士はどのように生きるべきなのか。

刀を振るう機会がなくなった時代において、武士としての誇りや責任をどのように保つのか。

葉隠は、その問いに対する一つの答えとして生まれた書物でした。

武士道とは何だったのか

現代では武士道という言葉を聞くと、

厳しさ

精神力

忠誠心

戦い

勝負

といったイメージを持つ人も少なくありません。

しかし葉隠を読み進めると、そこに書かれている内容は意外にも日常的なものが多くあります。

礼儀。

人との接し方。

約束を守ること。

責任を果たすこと。

学び続けること。

誠実であること。

つまり葉隠は単なる戦いの教科書ではなく、人としてどう生きるかを考えるための書物でもあるのです。

武士道とは戦う技術だけではありません。

むしろ、自分自身を律し、人との関係を大切にしながら生きるための哲学だったと私は理解しています。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」の本当の意味

葉隠の中で最も有名な言葉があります。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」

この言葉だけを聞くと、命を軽視する思想のように感じるかもしれません。

現代の感覚からすると、危険な考え方に聞こえる人もいるでしょう。

しかし私は、この言葉をそのようには理解していません。

私が受け取っている意味は、

「自分の保身だけで生きない」

ということです。

私たちは日々、

失敗したらどうしよう。

嫌われたらどうしよう。

損をしたらどうしよう。

恥をかいたらどうしよう。

と考えます。

それ自体は自然なことです。

誰もが恐れや不安を持っています。

しかし葉隠が伝えようとしているのは、その恐れによって行動を止めるのではなく、自分が正しいと思うことを誠実に実行する覚悟なのではないでしょうか。

それは死を求める思想ではありません。

むしろ、自分の恐れや執着を超えて生きるための姿勢だと私は考えています。

私は司法、犯罪、トラウマに関わる仕事に1990年代から携わってきました。

その中で、数えきれないほど人間の本音が現れる瞬間に立ち会いました。

究極の場面で、自分の利益を守ることを優先した人もいました。

その結果、大切な誰かが被害を受けてしまった場面も見てきました。

一方で、自らの危険を顧みず、他者を守った人たちもいました。

私はそのどちらも見てきました。

誰かを裁きたいわけではありません。

私は常に支援者として、その人たちの人生に寄り添ってきました。

しかし、その経験を通して思うのです。

葉隠が語っているものの一つは、自分の保身を超えて行動する勇気なのではないかと。

葉隠を現代にどう読むか

葉隠は三百年以上前に書かれた書物です。

当然ながら、現代社会とは価値観も環境も大きく異なります。

そのため、書かれている内容のすべてをそのまま現代に当てはめることはできません。

しかし、その中にある本質的な問いは今も変わらないように思います。

人はどう生きるのか。

人はどう成長するのか。

人はどう人と関わるのか。

そして、自分自身とどう向き合うのか。

私自身、禅やトラウマ回復の学びを通して、この問いに向き合い続けてきました。

その過程で感じたのは、葉隠が語っているものは他人に勝つための教えではなく、自分自身との対話なのではないかということです。

外の敵を探すのではなく、

自分の中にある恐れ、

怒り、

執着、

見栄、

慢心を見つめること。

そこに葉隠の本質があるように感じています。

私が理解する葉隠

歴史的には、「葉隠」という言葉には、表に出ず葉の陰に隠れて主君に仕えるという武士の姿勢が込められていると言われています(Yamamoto, 1979)。

しかし私は、この言葉を聞くたびに別のイメージを思い浮かべます。

葉の裏側です。

目に見えているものの裏側。

言葉の裏側。

行動の裏側。

人の心の裏側。

私の仕事や人生経験の中で学んだことは、真実は必ずしも表面には現れないということでした。

私は若い頃、どうしてもそりの合わない方と仕事をしていました。

私が何を提案しても否定される。

何を言っても受け入れてもらえない。

そんな相手でした。

その時、父は私にこう言いました。

「まだ相手を表面しか見ていない。」

「彼の心を観ろ。」

「彼の背中を観ろ。」

「彼の影を観ろ。」

「そして自分の心を観ろ。」

「自分の背中を観ろ。」

「自分の影と対話しろ。」

「相手のフィードバックを、自分が否定されたと言い訳している程度では、お前はまだプロではない。」

私はその言葉に衝撃を受けました。

それから私は、その人の家族のこと、好きな食べ物、学生時代の話などを聞くようになりました。

会社訪問の際にはお茶菓子を持参し、一緒に談笑するようになりました。

すると見えてきたのです。

その人は、私を否定する人ではありませんでした。

家族を深く愛し、仕事を真剣に愛しているプロフェッショナルだったのです。

私の理解は百八十度変わりました。

そして私は内観を始めました。

何度もお寺に通いました。

禅の瞑想をしました。

お坊様に相談しました。

ある日、境内の大きな木にもたれながら空を見上げていました。

その時、初めて葉の裏側を見たのです。

大きな枝。

小さな枝。

一枚一枚の葉。

どれ一つ同じではなく、

どれ一つ重なっていない。

それなのに全体として美しく調和していました。

私はその瞬間、自分の未熟さに気づきました。

相手を理解したつもりになっていた自分。

相手を批判していた自分。

その幼さに圧倒されました。

私にとって、それが葉隠の瞬間でした。

その後、私たちは長く家族ぐるみのお付き合いを続けることになりました。

現代を生きる私たちへのメッセージ

私は葉隠を読みながら、武士道とは過去の日本文化ではなく、現代にも生きる人間的な知恵なのではないかと感じています。

武士道とは誰かを支配するためのものではありません。

誰かに勝つためのものでもありません。

自分自身を律し、

相手を敬い、

約束を守り、

礼を尽くし、

学び続け、

人として成長し続けるための姿勢です。

そして必要な時には刀を抜く勇気を持つこと。

同時に、抜いた刀を鞘に戻す知恵を持つこと。

私の両親はよく言いました。

「本当に窮地に追い込まれた時は、思い切って目を閉じなさい。」

「意識を丹田に持っていき、深呼吸しなさい。」

「過去も未来も考えない。」

「この瞬間だけを見る。」

「そうすれば心の目が開く。」

「相手を責めるな。」

「状況に絶望するな。」

「自分も責めるな。」

「ただ状況を理解しなさい。」

「世の中には必ず道がある。」

「それが智慧だ。」

「嵐の中でも消えないろうそくの火になれ。」

「そして抜いた刀は、鞘に戻しなさい。」

私は人生の中で何度か、本当に目を閉じたことがあります。

怖かったです。

不安でした。

しかし不思議なことに、鍛錬を続けるうちに、目を閉じることが恐怖ではなく平安になりました。

そしてその静けさの中から、次に進むための智慧が生まれるようになったのです。

禅には「大死一番(たいしいちばん)」という言葉があります(Suzuki, 1959)。

絶望の先に、新しい視点や希望が生まれることを意味します。

私たちはどんな状況にあっても、切り抜ける智慧を持っています。

そして武士道の中心には、克己心があります。

他人に勝つことではなく、

自分自身と向き合うこと。

その考え方は、現代の心理学や自己成長、そして私が長年取り組んできたトラウマ回復の実践とも深く重なっているように感じています。

次章では、この葉隠の中心にある「克己心」について、謙虚さと自己成長との関係を含めながら考察していきたいと思います。

参考文献

Nitobe, I. (2001). Bushido: The soul of Japan. Dover Publications. (Original work published 1900)

Suzuki, D. T. (1959). Zen and Japanese culture. Princeton University Press.

Yamamoto, T. (1979). Hagakure: The book of the samurai (W. S. Wilson, Trans.). Kodansha International. (Original work published 1716)

Yamada, K. (2009). The gateless gate: The classic book of Zen koans. Wisdom Publications.

第二章 克己心についての考察

謙虚さと自己成長のつながり

克己心とは何か

葉隠を読んでいて、私が最も惹かれたのは「克己心」という考え方です。

克己とは、文字通り「己(自分)に克つ」と書きます。

敵は己の中にあり。

しかし私は、この言葉を我慢することや感情を押し殺すことだとは考えていません。

また、自分を厳しく責め続けることでもないと思っています。

むしろ克己心とは、自分自身を深く理解しようとする姿勢であり、自分の感情や欲望に振り回されないための知恵なのではないでしょうか。

私たちは日々、怒り、不安、嫉妬、恐れ、見栄、承認欲求など、さまざまな感情を経験します。

それらの感情を持つこと自体は悪いことではありません。

問題は、それらに支配されてしまうことです。

批判されると必要以上に反応してしまう。

失敗を恐れて挑戦を避けてしまう。

自分が正しいことを証明するために相手を攻撃してしまう。

そうした経験は誰にでもあるのではないでしょうか。

克己心とは感情をなくすことではありません。

「今、自分の中で何が起きているのだろう」

と立ち止まり、自分自身を見つめる力なのだと私は考えています。


感情と茶室

また、私は大きな感情が生まれた時には座禅をしながら、感情と脳とインナーセルフと対話します。この世の中に無駄なものはないという考えから、私は感情もまた、必要だと思い作られたものだと理解しています。

人は心地いい感情は長く保てないのに、心地よくない感情は長く保持できるように脳がデザインされています。それは、人類が原始時代の狩猟採集生活の中で、常に危険を察知しながら生存してきたことと関係しているとも言われています。

私は、怒りや悲しみといった心地よくない感情を感じた時、小さな茶室にいる私、感情、インナーセルフと茶を飲んでいる場面を想像します。

誰も語りません。

障子から差し込む柔らかい日差し、畳の香り。

茶釜から湧き上がる湯気。お茶の香り。

暖かい茶器。

衣擦れの音。

遠くから聞こえる鳥のさえずり。

時々は竹林から爽やかな竹の揺れる音が聞こえます。

その中にいると自然と私は、感情の意味、自分の思考、状況への理解が深まり、自然と感情とインナーセルフが茶室からいなくなり、私は感謝の気持ちで胸が熱くなります。

私が行っていることは、現代心理学でいうマインドフルネスや観察的自己にも近いのかもしれません(Kabat-Zinn, 1994)。

克己心と謙虚さ

心理学では Quiet Ego(静かなエゴ)という概念があります(Bauer & Wayment, 2008; Wayment & Bauer, 2017)。それは自分を否定することでも、自分を過剰に大きく見せることでもありません。自分と他者の双方を尊重しながら成長していく在り方です。私はこの考え方に、葉隠の克己心との共通点を感じています

私は、克己心の土台には謙虚さがあると思っています。

謙虚さとは、自分を小さく見せることではありません。

自信がないことでもありません。むしろ、自己肯定感(self-esteem)が安定している状態に近いのではないでしょうか。

本当の謙虚さとは、

「私はまだ学ぶことができる」

と理解することです。それが、森田療法でいう「あるがまま」の境地であるようにも感じます(Morita, 1998)。

人は、自分はもう十分知っていると思った瞬間に成長を止めてしまいます。

反対に、

どんな年齢になっても、

どんな経験を積んでも、

どんな立場になっても、

学び続ける人は成長し続けます。

私はこれを「好奇心のある謙虚さ」と呼びたいと思います。

好奇心とは単なる知識欲ではありません。

自分自身を理解しようとする勇気でもあります。

他者を理解しようとする姿勢でもあります。

そして、自分の思い込みや限界を認める強さでもあります。

謙虚であることは、とても勇気のある姿勢ではないでしょうか。そしてそれは愛ではないでしょうか。

第一の矢・第二の矢

仏教には「第一の矢、第二の矢」という教えがあります。

第一の矢は人生の中で避けられない苦しみや出来事です。

しかし第二の矢は、その出来事に対して私たちが生み出す怒りや執着、解釈による苦しみです。

相手を責めることや、状況に落胆することは、誰にでもできます。

矢を射抜くように、簡単に力を発散できるからです。

ですが、克己心を持ち、謙虚になることは、その矢を内側に向けることです。

私たちは傷つくと、第二の矢として怒りや執着を生み出し、それを相手に向けようとします。

しかし、まず第一の矢をしっかり見つめることで、矢を放つべきなのか、刀を抜くべきなのか、それとも、第二の矢を内省へ向けるべきなのかが見えてくるのです

禅の初心と克己心

禅には「初心」という考え方があります(Suzuki, 1970)。

初心とは、経験が浅いという意味ではありません。

長年学んでいても、初めて学ぶ人のような新鮮な心を持ち続けることです。

私はこの考え方が克己心と非常に近いように感じています。

なぜなら、自分の思い込みや先入観に気づき続けるためには謙虚さが必要だからです。

そして謙虚さがあるからこそ、好奇心を失わずにいられるのです。

私は長年、禅や心理療法、トラウマ回復について学んできました。

その過程で気づいたのは、本当の成長とは何かを足すことではなく、自分自身をより深く知ることなのかもしれないということでした。

そしてとても面白いのは、私の周囲のプロフェッショナルだと感じる人たちは、子どものように、中学生のように、学ぶことを楽しんでいるのです。知らないことは、知らないといえるのです。

第二章のまとめ

私にとって克己心とは、自分を厳しく裁くことではありません。

裁くとはむしろ傲慢にも感じます。

他人に勝つことでもありません。

自分自身と誠実に向き合うことです。

恐れや怒り、見栄や執着に飲み込まれず、

「私はどう生きたいのか」

を問い続けることです。

そして本当の強さとは、

戦い続けることではなく、

必要な時に行動し、

終わったら執着を手放し、

再び穏やかに歩き出すことなのだと思います。

次章では、この克己心を日常生活の中でどのように実践できるのかについて考えていきたいと思います。

参考文献

Bauer, J. J., & Wayment, H. A. (2008). The psychology of the quiet ego. American Psychological Association.

Kabat-Zinn, J. (1994). Wherever you go, there you are: Mindfulness meditation in everyday life. Hyperion.

Morita, S. (1998). Morita therapy and the true nature of anxiety-based disorders. State University of New York Press.

Suzuki, S. (1970). Zen mind, beginner's mind. Weatherhill.

Wayment, H. A., & Bauer, J. J. (2017). The quiet ego: Motives for self-other balance and growth in relation to well-being. Journal of Happiness Studies, 18(3), 881–896.


第三章 本当の強さとは何か

― 戦わない勇気と放下


本当の強さとは戦わないということ

私が両親や親族から学んだ武士道は、勝つことではありませんでした。

本当の強さとは、むしろ戦わないこと。

相手の土俵に乗らないこと。

必要のない争いを避けることでした。

そして、他人と比べないことです。

若い頃の私は、強さとは力のことだと思っていました。

知識があること。

地位があること。

勝つこと。

負けないこと。

しかし年齢を重ね、多くの人と出会う中で、その考えは少しずつ変わっていきました。

本当に強い人は、むやみに戦いません。

自分を大きく見せません。

必要以上に相手を攻撃しません。

そして、自分の感情に振り回されません。

一方で、必要な時には刀を抜くことも教えられました。

しかしそれは相手を傷つけ続けるためではありません。

刀を抜いたならば、用が済んだ後は鞘に戻すこと。

それもまた武士道だと教えられてきました。

私はこの教えを長年かけて理解するようになりました。

人は怒りに支配されると、

何度も同じ出来事を蒸し返します。

相手を責め続けます。

勝敗に執着します。

過去を繰り返し掘り返し続けます。

しかし克己心とは、その怒りや執着に飲み込まれないことなのかもしれません。

必要な時には境界線を引く。

必要な時には自分を守る。

必要な時には声を上げる。

しかし、その後も延々と相手を攻撃し続けない。

終わったことを終わらせる。

それが放下(ほうげ)――執着を手放すということではないでしょうか。

私はそこに本当の強さがあるように感じています。

諸行無常と放下

私が禅寺で学んだことがあります。

ある日、私は空を見上げていました。

大きな雲が流れていました。

あまりにも美しくて、

私は思わず両手を伸ばしました。

「止まってほしい」

そう思ったのです。

するとお坊さんが笑いました。

「愛ちゃん、雲は止まらないよ」

「この綺麗な雲も流れていく」

「諸行無常だからね」

その時は意味がよく分かりませんでした。

しかし人生を重ねるにつれて、その言葉の重みが少しずつ分かるようになりました。

嬉しいことも続かない。

悲しいことも続かない。

成功も失敗も続かない。

人も変わる。

社会も変わる。

私たち自身も変わり続けている。

だからこそ、執着しすぎない。

放下とは諦めることではありません。

変化を受け入れる智慧なのだと思います。

この考え方は、禅や仏教が長年伝えてきた無常観とも深く重なっています(Suzuki, 1956)。

色即是空とトラウマ回復

仏教には

「色即是空」

という言葉があります。

私は専門家ではありませんので、哲学的な解釈を語るつもりはありません。

しかし私なりに理解しているのは、

私たちが絶対だと思っているものは、

実は絶対ではないということです。

怒りも。

恐怖も。

悲しみも。

永遠ではありません。

トラウマ治療をしていると、

クライアントさんが

「ずっと続くと思っていた苦しみが変わった」

と話される瞬間があります。

私はその姿を見るたびに、

色即是空という言葉を思い出します。

トラウマとは、脳や神経系が危険を記憶した結果として起こる自然な反応です(van der Kolk, 2014)。

しかし、その記憶は固定されたものではありません。

適切な支援や統合の過程を通して、人は変化していくことができます。

その意味で私は、色即是空とは「変化の可能性」を示している言葉のようにも感じています。

やわらという強さ

私の両親はよく言いました。

「柔らかいというのは優しいという意味だけではない」

「柔とは臨機応変だ」

と。

柔道の「柔」。

やわら。

状況は常に変わります。

だから、

絶対こうしなければならない

という考えに固執しない。

その瞬間に応じて動く。

必要なら前へ出る。

必要なら下がる。

必要なら待つ。

必要なら刀を抜く。

必要なら鞘に戻す。

私はこれこそ武士道の強さだと思っています。

実際、私の両親はそういう人たちでした。

野良犬を見つければ、その場で助けていました。

友人が住む場所を失いそうになったと聞けば、その日のうちに部屋を整え始めていました。

一週間後ではありません。

今でした。

私はそこに、やわらを見ました。

状況に応じて即座に応答する力。

頭で考えるだけではなく、行動に移す力。

それが本当の優しさなのだと学びました。

トラウマ回復とCenteredness

私は長年、トラウマを抱えた方々や犯罪被害に遭われた方々の支援に携わってきました。

その中で学んだことがあります。

人は傷つくと、どうしても外に原因を探したくなります。

誰かが悪い。

社会が悪い。

環境が悪い。

もしくは、

私が悪い。

すべての原因は私にある。

必要以上にインナーセルフがリアルセルフを攻撃する。

もちろん、実際に理不尽な出来事や加害行為が存在することもあります。

しかし回復の過程では、ある時点で

「これから私はどう生きるのか」

という問いと向き合うことになります。

私は脳科学や神経科学、EMDR、内観、さまざまな心理療法を学ぶ中で、この問いが葉隠の克己心とどこか重なるように感じています。

トラウマの治療をしていて感動する瞬間があります。

それは、クライアントさんが過去のトラウマを過去の出来事として見られるようになる瞬間です。

トリガーがあってもPTSD症状が出なくなる。

それは単に症状が減ったということではありません。

自己成長であり、統合の瞬間です。

過去と現在と未来が統合される。

記憶が統合される。

感情と思考が統合される。

体が記憶に反応しなくなる。

つまり、トラウマがトラウマではなく、人生の一部になるのです(Shapiro, 2018; Siegel, 2020)。

私はトラウマ回復とは、自分自身の中心を取り戻すことだと思っています。

私はそれをCenterednessと呼んでいます。

武道で言うなら丹田。

禅で言うなら今ここ。

心理学で言うなら自己調整や統合です。

トラウマによって私たちは中心を失います。

過去に引っ張られる。

未来を恐れる。

怒りや不安に飲み込まれる。

しかし回復とは、

もう一度、自分の中心へ戻ることです。

私は道場で向き合う二人の武道家を想像します。

相手を倒そうとするのではなく、

まず自分の中心を整える。

そうすると不思議なことに、

戦場そのものが静かになるのです。

克己心とは他人を責めないことではありません。

不正を見逃すことでもありません。

受け入れすぎることでもありません。

むしろ、

自分の人生の主導権を取り戻すことです。

私はそこに葉隠が語ろうとしていた強さの一つを見るのです。

第三章のまとめ

私にとって本当の強さとは、

勝つことではありません。

戦い続けることでもありません。

必要のない戦いをしないこと。

必要な時だけ刀を抜くこと。

そして、用が済んだら鞘に戻すことです。

また、本当の強さとは、

諸行無常を理解すること。

色即是空を理解すること。

変化を受け入れること。

そして柔らかく生きることでもあります。

トラウマ回復もまた同じです。

回復とは誰かに勝つことではありません。

自分自身の中心へ戻ることです。

私は、その中心に克己心があり、

その周りを禅や武士道の智慧が支えているように感じています。

次章では、この克己心を日常生活の中でどのように実践できるのかについて考えていきたいと思います。

参考文献

Kabat-Zinn, J. (1994). Wherever you go, there you are: Mindfulness meditation in everyday life. Hyperion.

Shapiro, F. (2018). Eye movement desensitization and reprocessing (EMDR) therapy: Basic principles, protocols, and procedures (3rd ed.). Guilford Press.

Siegel, D. J. (2020). The developing mind (3rd ed.). Guilford Press.

Suzuki, D. T. (1956). Zen Buddhism: Selected writings of D. T. Suzuki. Doubleday.

van der Kolk, B. A. (2014). The body keeps the score: Brain, mind, and body in the healing of trauma. Viking.

Williams, M., & Penman, D. (2011). Mindfulness: An eight-week plan for finding peace in a frantic world. Rodale.


第四章 トラウマ回復と克己心

― 自分の人生の主導権を取り戻す

自己成長とは何か

現代社会では「自己成長」という言葉をよく耳にします。

しかし自己成長とは、誰かより優秀になることではありません。

他人との競争に勝つことでもありません。

昨日の自分より少し成長すること。

少し視野を広げること。

少しだけ人に、自分に優しくなれること。

そして、自分自身をより深く理解することです。

私は、成長とは一生続く旅なのではないかと思っています。

私は自己成長とは、自分との対話を続けることだと思っています。

その対話の中で、

好奇心を持ち続けること。

謙虚であること。

学び続けること。

そして自分の限界も認めること。

自分の限界を知ると、次の課題が自然と見えてきます。

それらすべてが克己心につながっているように思います。

ドラマトライアングル

― 交流分析理論と武士道

私は1998年から現在まで、犯罪被害者支援、トラウマ回復支援の分野で多くの方々と出会ってきました。

その中には、深刻な暴力被害を経験した方々、大切な家族を失った方々、人生を根底から揺るがされるような経験をされた方々もいました。

その中で私が繰り返し見てきたものがあります。

それは、人が苦しみの中で無意識にドラマトライアングルへ入ってしまうことです(Karpman, 1968)。

交流分析理論では、

被害者

加害者

救済者

という三つの役割が語られます。

被害者は、

「私は傷つけられた」

と感じます。

加害者は、

「相手が悪い」

と責任を押し付けます。

救済者は、

「私が助けなければ」

と動きます。

しかし興味深いことに、人はこの三つの役割を行き来します。

誰かを尊敬していた人が、相手の態度が変わると被害者になります。

誰かを助けようとしていた人が、思い通りにならないと加害者になります。

そして加害者だと思われている人が、実は深い被害者意識の中にいることもあります。

私は長年この光景を見てきました。

克己心とはドラマトライアングルから降りること

私は葉隠の克己心とは、

誰かを責めることではなく、

ドラマトライアングルから降りる力だと思っています。

「なぜ相手はこうしたのか」

ではなく、

「私はこれからどう生きるのか」

へ意識を戻すことです。

この問いは、トラウマ回復だけでなく、実存心理学が長年扱ってきた中心的なテーマでもあります(Yalom, 1980)。

それは加害者を許すことではありません。

不正を見逃すことでもありません。

自分の人生の主導権を取り戻すことです。

主導権を取り戻すということ

トラウマは、人から主導権を奪います。

突然の事故。

暴力。

裏切り。

喪失。

差別。

いじめ。

理不尽な出来事。

その瞬間、人は

「自分ではどうにもできない」

という感覚を抱くことがあります。

しかし回復とは、過去を消すことではありません。

起きた出来事をなかったことにすることでもありません。

回復とは、

再び人生の舵を自分の手に戻すことです。

私はこれを、

人生の主導権を取り戻すこと

だと考えています。

心理学では、このような主体性や自己決定感は、人間の成長やウェルビーイングにおいて重要な要素であるとされています(Ryan & Deci, 2017)。

また、自分には行動する力があるという感覚、すなわち自己効力感(self-efficacy)は、回復力や挑戦への意欲を支える重要な要素であることが示されています(Bandura, 1997)。

私は、ここに武士道の本質の一つがあるように感じています。

他人を変えようとするのではなく、

自分がどう生きるかを選ぶこと。

それが克己心なのではないでしょうか。

私が見てきたプロフェッショナルたち

私はこれまで、

刑事

検事

裁判官

弁護士

医師

プロベーションオフィサー

コミュニティリーダー

研究者

経営者

多くのプロフェッショナルと関わってきました。

その中で、

「この人には武士道がある」

と感じる人たちには共通点がありました。

武士道のある人の共通点

彼らは、

フィードバックを受け取ります。

自分の限界を認めます。

分からないことを分からないと言います。

周囲に助言を求めます。

有言実行します。

そして決して威張りません。

誰々を知っている。

こんな仕事をした。

こんな肩書きがある。

そういう話をほとんどしません。

しかし話していると自然に分かるのです。

その人が積み重ねてきた人生が。

その人が積み重ねてきた努力が。

その人が何を大切にして生きてきたのかが。

私はそれを品格と呼びます。

そしてそれこそが武士道なのだと思っています。

固有のアイデアを持つ

父はよく言いました。

「人に作らせたものは血肉にならない」

「自分で考えたものだけが本当の財産になる」

私はこの言葉を長年かけて理解しました。

情報を集めることはできます。

知識を借りることもできます。

しかし最終的に大切なのは、

自分で考えることです。

自分の哲学を持つことです。

自分なりの答えを作ることです。

私はトラウマ研究を続ける中で、

武士道

EMDR

内観

森田療法

脳科学

神経科学

アート

ムーブメント

を統合しながら、

自分自身の考えを育てています。

それは父が言っていた、

「血肉になる学び」

なのだと思います。


人を本当に支えるもの

私はセラピストとして、

研究者として、

そして一人の人間として、

長年そのような方々と向き合ってきました。

その経験の中で学んだことがあります。

それは、人間を本当に支えるものは、

力や地位やお金ではないということです。

人が最も苦しい時に支えになるのは、

誰かとのつながりであり、

誰かから受けた優しさであり、

忘れられない一言であり、

共にいてくれた存在です。

私はまた、日本人として育つ中で、

という価値観に触れてきました。

若い頃は、それらを古い考え方だと思ったこともありました。

しかし長年、人の苦しみと回復の過程を見続けてきた今、私はむしろそれらが人間の回復力の根底にあるように感じています。

人は一人では生きられません。

誰かに支えられ、

誰かを支えながら生きています。

だからこそ私は、

武士道の本質は強さではなく優しさだと考えています。

そして優しさとは、

仁を持つこと。

義を尽くすこと。

礼を忘れないこと。

恩を忘れないこと。

それらを日々の行動の中で実践することなのだと思います。

トラウマ回復と自己成長

トラウマの回復もまた同じです。

回復とは誰かに勝つことではありません。

自分自身と向き合い、

人とのつながりを取り戻し、

再び人生を生きる力を育てていくことです。

私はトラウマ治療の現場で、何度も感動する瞬間に立ち会ってきました。

それは、クライアントが過去を過去として見られるようになる瞬間です。

トリガーがあっても、身体が以前のように反応しなくなる。

PTSD症状が軽減する。

しかし、それは単に症状が消えたという話ではありません。

私はそこに統合を見ます。

過去と現在と未来が統合される。

感情と思考が統合される。

身体と記憶が統合される。

そしてトラウマは、

「今起きている出来事」

ではなく、

「過去に起きた出来事」

へと変化していくのです。

心理学では、このような変化を超えて生じる成長を

Post-Traumatic Growth(PTG:心的外傷後成長)

と呼びます(Tedeschi & Calhoun, 2004)。

苦しみが消えるわけではありません。

しかし苦しみを通して、

人生観が変わる。

人との関係が深まる。

感謝が増える。

自分の強さに気づく。

新しい可能性を発見する。

そのような変化が生まれることがあります(Tedeschi et al., 2018)。

私は葉隠の克己心も、その延長線上にあるように感じています。

克己とは、自分を責めることではありません。

より良い自分になろうと学び続けること。

そして、自分が受け取ったものを次の世代や社会へ手渡していくことなのだと思います。

第四章のまとめ

克己心とは、

感情を押し殺すことではありません。

我慢することでもありません。

自分自身と対話し続けることです。

被害者にも。

加害者にも。

救済者にもなりすぎないこと。

人生の主導権を取り戻すこと。

そして、

自分自身の哲学を持つこと。

私はそれが葉隠の語る克己心であり、

現代に生きる私たちに必要な武士道ではないかと思っています。

参考文献

Bandura, A. (1997). Self-efficacy: The exercise of control. W. H. Freeman.

Frankl, V. E. (2006). Man's search for meaning. Beacon Press. (Original work published 1946)

Herman, J. L. (2022). Trauma and recovery: The aftermath of violence—from domestic abuse to political terror (3rd ed.). Basic Books.

Karpman, S. (1968). Fairy tales and script drama analysis. Transactional Analysis Bulletin, 7(26), 39–43.

Ryan, R. M., & Deci, E. L. (2017). Self-determination theory: Basic psychological needs in motivation, development, and wellness. Guilford Press.

Tedeschi, R. G., & Calhoun, L. G. (2004). Posttraumatic growth: Conceptual foundations and empirical evidence. Psychological Inquiry, 15(1), 1–18.

Tedeschi, R. G., Shakespeare-Finch, J., Taku, K., & Calhoun, L. G. (2018). Posttraumatic growth: Theory, research, and applications. Routledge.

Yalom, I. D. (1980). Existential psychotherapy. Basic Books.



第五章 日常生活で克己心をどう活かすか

― 武士道の実践

はじめに

葉隠に書かれている武士道は、特別な人のための教えではありません。

私はむしろ、克己心とは日常生活の中で育まれるものだと考えています。

人生を大きく変えるような出来事だけではなく、毎日の小さな選択や行動の積み重ねの中にこそ、克己心は現れます。

心理学においても、人の成長や人格形成は一度の大きな出来事ではなく、日々の行動や習慣の積み重ねによって形成されることが示されています(Dweck, 2016)。

ここでは、私自身が大切にしている武士道の実践について紹介したいと思います。

好奇心を持ち続ける

私は好奇心を持ち続けることを大切にしています。

心理学では Quiet Ego(静かなエゴ)という概念があります。

Quiet Egoとは、自分を大きく見せたり他人と競争したりするのではなく、成長と学びを大切にする姿勢です(Bauer & Wayment, 2008)。

子どもが

「どうして空は青いの?」

「なぜ鳥は飛べるの?」

と尋ねるように、

私たちは大人になっても

「なぜだろう」

「どうしてだろう」

と問い続けることができます。

好奇心とは知識を増やすことだけではありません。

自分自身を理解すること。

他者を理解すること。

状況を理解すること。

その姿勢そのものが克己心につながっているように思います。

また辛い状況の中でも、

「なぜこうなったのだろう」

「どこで流れが変わったのだろう」

と問い続けることは、感情ではなく事実を観察する力につながります。

これはEMDRにおける観察的姿勢とも共通しているように感じています(Shapiro, 2018)。

襟を正す

私は幼い頃から「矜持」という言葉を聞いて育ちました。

襟を正すとは、単なる礼儀作法ではありません。

自分の言葉や行動を振り返ることです。

何か問題が起きた時、

私たちは外側に原因を探したくなります。

しかし克己心は、

「相手が悪い」

で終わるのではなく、

「私はどうだっただろう」

と自分自身へ問いかけます。

それは自分を責めることではありません。

より良く生きるための内省です。

私の両親は、

襟を正すとは、

他者への敬意だけではなく、

自分自身への敬意でもあると教えてくれました。

自律する

自律とは、

一人で生きることではありません。

自分自身を律し、

自分の選択に責任を持つことです。

心理学では、自律性は人間の幸福感や回復力に深く関係していることが知られています(Ryan & Deci, 2017)。

私はDV被害を受けた方々の支援を行う中で、

しばしば

「どうしたらいいですか」

と尋ねられることがあります。

その時私は、

答えを与えるのではなく、

その方自身が決断できるよう支援します。

なぜなら、

回復とは自分の人生の主導権を取り戻すことだからです。

少しずつ自分を信頼できるようになる。

少しずつ自分で選べるようになる。

その過程こそが自律なのだと思います。


諸行無常と今を生きる

私が禅や仏教を学ぶ中で教わった大切な教えに、

諸行無常があります。

喜びも。

悲しみも。

成功も。

失敗も。

出会いも。

別れも。

すべては流れ続けています。

私が幼い頃、

寺の境内で空を見上げていた時、

お坊さんがこう言いました。

「愛ちゃん、雲は止まらへんよ」

「今この瞬間も流れてるんや」

その言葉は今も私の中に残っています。

マインドフルネスの実践でも、

私たちは過去や未来ではなく、

今この瞬間へ意識を戻します(Kabat-Zinn, 1994)。

克己心とは、

今を生きる力でもあるのだと思います。

やわら ― 柔らかさという強さ

私の両親はよく、

「やわら」

という言葉を使いました。

柔道の「柔」です。

柔らかいとは、

弱いという意味ではありません。

変化に対応できること。

必要な時に動けること。

状況に応じて姿を変えられること。

それが本当の強さだと教えられました。

父はよく言いました。

「大木は簡単に切れる」

「でも柳は切れない」

柳は風に逆らいません。

しなやかに揺れます。

だから折れないのです。

EMDRでも、

身体が緊張している時より、

安心感や柔軟性が生まれた時の方が、

記憶処理はスムーズに進みます(Shapiro, 2018)。

私はそこに、

柔の力を見るのです。

丹田呼吸

私の両親は丹田呼吸を教えてくれました。

丹田とは、

おへその少し下にある身体の中心です。

そこへ意識を向け、

ゆっくり呼吸する。

すると、

感情も。

身体も。

思考も。

自然と中心へ戻っていきます。

現代の神経科学でも、

呼吸は自律神経を整える重要な方法として知られています(Siegel, 2020)。

私は人生で何度も、

呼吸によって救われてきました。

有言実行

私の両親は、

「言ったことはやる」

と教えてくれました。

信頼とは、

小さな約束の積み重ねです。

有言実行とは、

他人との約束だけではありません。

自分自身との約束を守ることでもあります。

それが自己信頼を育てます。

礼をもって義を尽くす

正しいことを言うだけでは十分ではありません。

そこに礼がなければ、

人を傷つけることがあります。

礼とは形式ではありません。

敬意です。

相手の尊厳を大切にすることです。

私は武士道の本質とは、

強さではなく、

優しさなのではないかと思っています。

そして優しさとは、

仁。

義。

礼。

恩。

を実践することです。

第五章のまとめ

克己心とは、

特別な修行ではありません。

毎日の小さな実践です。

好奇心を持つこと。

襟を正すこと。

自律すること。

今を生きること。

柔らかく在ること。

深呼吸すること。

約束を守ること。

礼を尽くすこと。

その積み重ねが、

やがて人格となり、

品格となり、

人生そのものになっていくのだと思います。

私にとって武士道とは、

誰かに勝つための道ではありません。

自分自身を整え、

人を大切にし、

穏やかに生きるための道です。


参考文献

Bandura, A. (1997). Self-efficacy: The exercise of control. W. H. Freeman.

Bauer, J. J., & Wayment, H. A. (2008). The psychology of the quiet ego. American Psychological Association.

Brown, B. (2018). Dare to lead. Random House.

Covey, S. R. (2020). The 7 habits of highly effective people. Simon & Schuster.

Dweck, C. S. (2016). Mindset: The new psychology of success. Ballantine Books.

Kabat-Zinn, J. (1994). Wherever you go, there you are: Mindfulness meditation in everyday life. Hyperion.

Ryan, R. M., & Deci, E. L. (2017). Self-determination theory: Basic psychological needs in motivation, development, and wellness. Guilford Press.

Shapiro, F. (2018). Eye movement desensitization and reprocessing (EMDR) therapy (3rd ed.). Guilford Press.

Siegel, D. J. (2020). The developing mind (3rd ed.). Guilford Press.



第六章 文化資本としての武士道

―私が受け継いだ見えない財産

私は移民として、日本人として、母として、経営者として、セラピストとして生きています。

人生の中で、私たちはさまざまな役割を持っています。

親の前では子ども。

子どもの前では親。

職場では専門職。

学校では学生。

コミュニティではリーダー。

友人の前では一人の仲間。

人は状況によって異なる社会的自己を持っています。

心理学では、アイデンティティ、エゴ、エージェンシーという概念があります。

アイデンティティとは、自分が何者であるかという価値観や自己認識です。

エゴとは、自分という感覚、Sense of Selfです。

そしてエージェンシーとは、自ら考え、選択し、行動する力です。

しかし私は、もう一つ大切なものがあると思っています。

それがカルチュラル・キャピタル(文化資本)です。

文化資本とは、単なる学歴や資格ではありません。

家庭や地域社会、文化の中で受け継がれた価値観、考え方、振る舞い、生き方そのものです。

私が受け継いだ文化資本

私の名前は「愛」です。

幼い頃から私は、

愛することとは何か

を繰り返し教えられてきました。

愛するとは優しさであること。

愛するとは強さであること。

愛するとは相手を許すこと。

自分を許すこと。

人を助けること。

そして、自分自身も大切にすること。

私はそう学んできました。

それは私にとって大切な文化資本の一つです。

教育という文化資本

私はまた、教育についても独特の教えを受けて育ちました。

教育とは知識を増やすことだけではない。

特に大学や大学院での学びとは、

新しい論理を生み出すこと。

その論理が社会に貢献すること。

そして、その考えが安全であり、人々の役に立つものであること。

そのために研究し、

参考文献を読み、

検証し、

自分の考えを築いていくこと。

それが本当の学びであると教えられました。

そして教育は失われない財産でもあります。

美味しい食事は食べればなくなります。

高価な物もいつか壊れます。

しかし学びは残ります。

教育は誰にも奪うことのできない財産である。

私はそのように育てられました。

武士道という文化資本

私にとって武士道もまた文化資本です。

それは刀を持つことではありません。

好奇心を持ち続けること。

自律すること。

有言実行すること。

人に優しくすること。

私利私欲に振り回されないこと。

自分の限界を知ること。

そして常に学び続けること。

私はそうした価値観を受け継いできました。

品格という文化資本

私の両親は、品性や品格をとても大切にしていました。

茶道。

華道。

書道。

箸の持ち方。

お茶の飲み方。

食事の作法。

立ち居振る舞い。

挨拶。

礼状。

おもてなし。

おもたせ。

お辞儀。

目線。

笑顔。

話し方。

服装。

髪型。

その場にふさわしい振る舞い。



幼い頃の私は、なぜそこまで細かく言われるのか理解できませんでした。

しかし今振り返ると、それらは単なるマナー教育ではありませんでした。

相手への敬意を表現する方法を学んでいたのです。

私が幼い頃、ある親戚が家に泊まりに来たことがありました。

翌朝、その人が帰った後の部屋を見て私は驚きました。

布団。

シーツ。

枕。

使った寝具のすべてが、まるで展示会の見本のように整然と畳まれていたのです。

布の端は一ミリもずれていませんでした。


羽布団でさえ、どうやってそこまで美しく畳んだのか分からないほど整えられていました。

部屋には塵一つ落ちていませんでした。

その時、母が私に言いました。

「これが立つ鳥跡を濁さずということよ」

「これが礼を尽くすということよ」

その親戚は決して堅苦しい人ではありませんでした。

いつも優しく、よく笑い、周囲を和ませる人でした。

しかし私は、その姿の中に品性と品格を見ました。

そして今振り返ると、それは武士道にも通じる姿勢だったのだと思います。


また、私の両親も同じでした。

家族でホテルに宿泊すると、最終日の朝は驚くほど早く起きていました。

そして家族全員で部屋を掃除するのです。

机の下。

ベッドの下。

棚の隅。

床の小さな埃。

トイレの便器の裏側、見えないところを中心に掃除しなさいと指導されました。

指で一つひとつ拾いながら掃除をしていました。

私は子どもの頃、

「どうしてこんなことをするの?」

「私たちはお客さんなのに」

と聞いたことがあります。

すると父と母はこう言いました。

「違う」

「私たちは泊まらせていただいているんだ」

そしてこう続けました。

「ホテルは私たちが払うお金の何十倍、何百倍もの費用をかけて、この場所を維持している」

「私たちはその努力のおかげで快適に過ごさせてもらっている」

「だから感謝を示すのは当たり前なんだ」

当時の私にはよく分かりませんでした。


しかし今になって思うのです。

これは掃除の話ではなかったのだと。

感謝をどう行動で表現するかを学んでいたのだと。

ありがとうと言うことは大切です。

しかし本当の感謝は、言葉だけではなく行動の中にも現れます。

来た時より少しだけ綺麗にして帰る。

使わせてもらった場所を大切に扱う。

人が見ていなくても丁寧にする。

それは誰かに評価されるためではありません。


自分自身の在り方の問題なのです。


私はこうした姿勢もまた、文化資本の一つだと思っています。

そしてそれは、私が受け継いだ武士道の一部でもあるのです。


縁と一円相

私の両親は、幼い頃から「縁」についてよく話してくれました。

人との出会い。

学びとの出会い。

場所との出会い。

人生は縁によって成り立っているのだと教えられました。

また、縁の話をする時によく出てきたのが、一円相という考え方でした。

円相は禅の世界で描かれる円です。

一見すると単純な円ですが、その中には深い意味が込められています。

始まりも終わりもない。

完全でもあり、不完全でもある。

個でありながら全体でもある。

私は大人になってから、この一円相が人生そのもののように思えるようになりました。

私たちは一人で生きているようでいて、多くの人との縁の中で生きています。

家族。

友人。

先生。

仲間。

地域社会。


そして人生の中で偶然出会う人々。

今の自分は、そのすべての縁によって形づくられています。

私は長年、犯罪被害者支援やトラウマ回復支援の現場で多くの人と出会ってきました。

振り返ると、人生を変えた出来事の多くは計画されたものではありませんでした。

人との縁によってもたらされたものでした。


だから私は縁を大切にしたいと思っています。


そして受けた恩を忘れず、次の誰かへ手渡していきたいと思っています。

それもまた、私が受け継いだ文化資本の一つなのです。


わびさびという文化資本

私が幼い頃から学んできた文化資本の一つに、わびさびがあります。

わびさびというと、

古いものの美しさ。

静かな美しさ。

不完全なものの美しさ。

と説明されることがあります。

もちろんそれも間違いではありません。


しかし私の両親が教えてくれたわびさびは、もう少し違うものでした。

私の母はよく、

「本当の美しさは見えないところにある」

と言っていました。

私は着物の着付けを習っていた頃、疑問に思ったことがあります。

長襦袢はとても美しいのに、なぜ表に着ないのだろう。

羽織の内側には美しい刺繍や絵柄があるのに、なぜ人に見せないのだろう。

もったいないと思ったのです。


すると母は笑いながら言いました。

「それが本当のおしゃれなのよ」

「本当に品格のある人は見せびらかさないの」

私はその時、ブランド名が大きく書かれたTシャツを着ていました。

母はそのロゴを見て笑いました。

私も一緒に笑いました。


その時はよく分かりませんでした。

しかし大人になった今、その意味が少し分かるような気がします。

見せるためではなく、自分のために整える。

誰かに評価されるためではなく、自分の在り方として美しくある。

それが私の学んだわびさびでした。

神は細部に宿るという言葉があります。

私はそれは葉隠にも通じる考え方だと思っています。

人が見ている時だけ丁寧にするのではない。

見えないところにも心を尽くす。

そこに品性や品格が現れるのです。

想像する優しさ

私が幼い頃、遠足やピクニックの日になると、母はいつも多めのお弁当を持たせてくれました。

お弁当は一つではありません。

二つ、三つと持たされることもありました。

割り箸もたくさん持たされました。

水筒も余分に持たされることがありました。


私は毎回、

「重い」

と文句を言っていました。

すると母はこう言いました。

「お弁当を持って来られなかった子がいるかもしれないでしょう」

「ご両親が忙しくて作れなかったかもしれないでしょう」

「忘れてしまった子がいるかもしれないでしょう」

「困っている子がいるかもしれないでしょう」

だから持って行きなさい、と。

私はその大きな荷物を背負って遠足へ行きました。

そしてそれは小学校六年生になるまで続きました。


当時の私は、

どうしてそこまでするのだろうと思っていました。

でも今なら分かります。

母が教えていたのはお弁当の話ではありませんでした。

優しさとは何かを教えていたのです。

優しさとは、目の前に困っている人が現れてから考えることではありません。

もしかしたら困っている人がいるかもしれない。

もしかしたら助けが必要な人がいるかもしれない。

そう想像することです。


そして、そのために少し準備しておくことです。

実際には何も起こらないこともあります。

余計な荷物になることもあります。

それでも構わない。


なぜなら、その想像力そのものが優しさだからです。

私はその姿勢の中に、武士道を見ます。

そして、それもまた私が受け継いだ文化資本の一つなのです。

文化資本は目に見えません。

しかし人生の重要な場面で、その人の判断や行動に大きな影響を与えます。

心理学では、人はアイデンティティを通して自分自身を理解し(Erikson, 1968)、エージェンシーを通して人生の選択を行う存在であると考えられています(Bandura, 2001)。

私は、文化資本とはその土台にある見えない根のようなものだと思っています。

木が大地に根を張るように、人もまた文化や価値観の中に根を張りながら生きています。

だからこそ、自分がどのような文化資本を受け継いできたのかを理解することは、自分自身を理解することにつながるのです。



あなたの文化資本は何ですか

文化資本は必ずしも特別なものではありません。

家族から受け継いだ価値観かもしれません。

地域の文化かもしれません。

宗教や信仰かもしれません。

スポーツかもしれません。

芸術かもしれません。

皆さんの中にも、きっと受け継いできた大切な文化資本があるはずです。

それは履歴書には書かれていないかもしれません。

しかし人生の大切な場面で、あなたを支えているものです。


私はそれを見つめ直すことが、自分自身を理解することにつながると思っています。

アイデンティティ。

エゴ。

エージェンシー。

そして文化資本。

それらを統合していくとき、

私たちは自分自身の生き方を見つけていくのではないでしょうか。

そしてその中に、それぞれの人なりの武士道が存在しているのかもしれません。

私にとって武士道とは、

特別な思想でも、

歴史の中の概念でもありません。

文化資本として受け継いだ、

日々の生き方そのものなのです。


文化資本と回復力

私は長年、犯罪被害者支援やトラウマ回復支援に携わる中で、一つのことに気づきました。

人が困難な状況に直面した時、その人を支えるものは必ずしもお金や地位ではありません。

むしろ、

幼い頃に教わった言葉。

家族から受け継いだ価値観。

地域社会のつながり。

恩師から受けた励まし。

人生の中で出会った人々との縁。

そうした目に見えない文化資本が、人を支えていることが少なくありません。

心理学では、レジリエンス(回復力)は個人の特性だけでなく、家族、文化、共同体とのつながりによって育まれることが知られています(Ungar, 2021)。

私は文化資本もまた、人間の回復力を支える大切な資源なのではないかと考えています。

References

Bandura, A. (2001). Social cognitive theory: An agentic perspective. Annual Review of Psychology, 52, 1–26.

Bourdieu, P. (1986). The forms of capital. In J. Richardson (Ed.), Handbook of theory and research for the sociology of education (pp. 241–258). Greenwood.

Erikson, E. H. (1968). Identity: Youth and crisis. Norton.

Hofstede, G. (2001). Culture's consequences: Comparing values, behaviors, institutions and organizations across nations (2nd ed.). Sage.

McMillan, D. W., & Chavis, D. M. (1986). Sense of community: A definition and theory. Journal of Community Psychology, 14(1), 6–23.

Bushido: The Soul of Japan. (1900/2001). Dover Publications.

Putnam, R. D. (2000). Bowling alone: The collapse and revival of American community. Simon & Schuster.

Ungar, M. (2021). Multisystemic resilience: Adaptation and transformation in contexts of change. Oxford University Press.


おわりに

ここまで、葉隠、克己心、そして私が学んできた武士道について書いてきました。

もしかすると、

ずいぶん立派なことを書いているように見えるかもしれません。

しかし正直に言えば、私自身はまだまだ修行中の身です。

毎日失敗します。

毎日反省します。

毎日学び直しています。

私は現在、鍛錬のために一定の食生活を続けています。アルコールも一切とりません。しかし食べ物に関しては、チートデイももうけています。ご褒美デイです。

しかし同時に、私は両親から教わった大切なことも忘れないようにしています。

それは、

人生を楽しむことです。

私は時々思うのです。

昔の武士たちも、きっと毎日しかめ面をしていたわけではないだろうと。

鍛錬をしながら、

茶を一服つけ、

仲間と笑い、

美味しいものを食べ、

空を見て美しいと思い、

花を見て季節を感じ、

子どもたちを見て微笑み、

動物に癒されながら生きていたのではないでしょうか。

私たち現代人も、きっと同じです。

私はよくクライアントさんに、

「一日一善」

という話をします。

大きなことをしなくてもいい。

自分のために。

誰かのために。

地域のために。

次の世代のために。

世界のために。

一日に一つ、小さな良いことをする。

私はその積み重ねが、大きな力になると信じています。


中学生の頃、私は週に一度ゴミ袋を持ち、一人で近所のゴミ拾いをしていました。

父が使っていた大きな火ばさみのような道具を借りて、ゴミを拾っていました。

高校では老人ホームでボランティアをしました。

大学では阪神淡路大震災支援とホームレス支援に関わりました。

そして現在もコミュニティ活動を続けています。

振り返れば、私はずっと誰かと共に学び、誰かと共に生きてきたように思います。

もちろん失敗もたくさんありました。


ホームレス支援をしていた頃には、勧められるままにいろいろな食べ物や飲み物をいただき、何度も食中毒になりました。

本当に死ぬかと思うほど苦しかったこともあります。

そのおかげかどうかは分かりませんが、私はまだ一度もコロナにかかったことがありません。

医者の叔父も、

「それは謎やな」

と言っています。

私も謎だと思っています。


人生には分からないままでいいこともあるのでしょう。それもまた葉隠れでしょう。


私は現在も、コミュニティリーダーとしてさまざまな会議や活動に参加させていただいています。

そして、そこでたくさん学び、たくさん笑っています。

私はこれまで、多くの経営者やリーダーの方々とも出会ってきました。

大企業の経営者の方々。

地域社会を支える方々。

長年活躍されている専門職の方々。

そうした方々を見ていて感じることがあります。

本当に器の大きな人ほど、肩の力が抜けているのです。

本当に強い人ほど、どこか楽しそうなのです。

本当に優れた人ほど、ユーモアがあります。

私はそういう人たちを見るたびに、

「ああ、この人たちは人生を楽しんでいるんだな」

と思います。

それが禅でいう大愚なのではないでしょうか。


私自身もかなりの妄想家です。

筋力トレーニングをしている時もそうです。

あと十回。

重い。

しんどい。

もう無理。

そう思うと、私の体が話しかけてきます。

「おばちゃん、大丈夫や」

「おばちゃんやけど筋肉あるやん」

「あと十回いけるやん」

すると今度は心が言います。

「武士道言うてるわりに、ひよってるがな」

私は一人で笑っています。

たぶん傍から見たら少し変な人です。

でも私はそうやって自分と対話しながら生きています。

私は思うのです。

武士道とは厳しさだけではありません。


笑うこと。

楽しむこと。

学ぶこと。

挑戦すること。

誰かを助けること。

助けられること。

感謝すること。

そして人生そのものを味わうこと。


それもまた武士道なのだと。


私の武士道はまだ完成していません。

おそらく半年後には変わっているでしょう。

一年後にはまた違う理解をしているかもしれません。

それもまた諸行無常です。


変化することは悪いことではありません。

学び続けているということだからです。


もしこの文章を読んでくださった皆さんが、

ご自身の価値観や生き方を振り返るきっかけになったなら、とても嬉しく思います。

皆さんにも、皆さん自身の武士道があるはずです。

どうか、それぞれの武士道を大切にしてください。


そして何より、

人生を楽しんでください。

それが私の学んだ武士道です。


あとがき

テト様という武士道の師匠

ここまで葉隠、克己心、武士道、文化資本について書いてきました。

ですが、最後にどうしても紹介したい師匠がいます。

私の猫、

テト様です。

テトは2009年から我が家にいる大切な家族です。テト様は、SPCAで縁をいただきました。

パートナーであり、

親友であり、

息子であり、

アシスタントセラピストであり、

研究仲間であり、

そして私の禅と武士道の師匠です。

私は冗談半分でそう言っていますが、実は半分以上本気です。

なぜなら、私はテトから武士道を学んだからです。

テト様との出会い

テトと暮らし始めてから、私は何度も思いました。

猫という生き物は不思議です。

犬のように媚びません。

必要以上に人を喜ばせようとしません。

誰かに評価されようとも思っていません。

しかし、自分という存在を完全に信頼しています。

その姿を見ていると、

私はいつも武士道を思い出します。


猫は媚びない、アサーティブの真骨頂

私は長年、トラウマや人間関係を学んできました。

その中で感じることがあります。

人は不安になると、

必要以上に相手に合わせたり、

認められようとしたり、

自分を大きく見せたりします。

ですがテト様は違います。

機嫌が悪ければ寝ます。

眠ければ寝ます。

撫でられたければ来ます。

嫌なら去ります。

実にシンプルです。

しかし私はそこに、

セルフエスティームの高さを見ます。

自分を信頼している。

だから無理をしない。

だから媚びない。

だけど傲慢でもない。

私はそれが武士道だと思っています。


テト様武勇伝

二年前。

テトは突然、命に関わる大きな病気になりました。

獣医師チームからは厳しい説明を受けました。

一般的にはプットダウンという選択肢も考える状況でした。

もちろん先生方は最善を尽くしてくださいました。

私は数字や検査結果の話をしたいのではありません。


私が伝えたいのは、

その時のテト様の目です。

確かに体は弱っていました。

ですが目の中に光がありました。

私はその光を見ました。


そして、

「まだ死なない」

そう言われた気がしました。

もちろん真実は分かりません。

私の思い込みだったかもしれません。

偶然だったかもしれません。


ですが私は、

その時の自分の感覚と、

テトとの信頼関係を信じることにしました。

獣医師チームも全力で治療してくださいました。

私は毎日病院へ通いました。

毎日話しかけました。

毎日感謝を伝えました。

そして半年後。

テト様は完全復活しました。

私は今でも思います。

あの時私が見た目の光。

あれがテト様の武士道だったのではないかと。

テト様ファンクラブ事件

入院中。

病院では不思議な現象が起きていました。

獣医師さんも看護師さんも、

みんなテト様のファンになってしまったのです。

理由は簡単でした。


テト様があまりにも達観していたからです。

私はお見舞いに行くと、

シャキッとする。

でも先生の前では、

ちょっと弱っている顔をする。

しかし検査の時になると、

先生の顔をじっと見る。

説明を聞く。

理解する。

納得する。

ある先生は気づきました。

「この子、説明すると落ち着く」

そこから毎回、

これから何をするのか。

なぜその検査をするのか。

丁寧に説明するようになりました。


するとテト様は、

一度も慌てなくなったそうです。

どれだけ痛い検査でも、

ニャーと言わない。

顔は完全にスターウォーズのヨーダ。

しかし。

心拍数はバクバク。

血圧も上昇。

肉球は汗だく。

顔だけ達観。

中身はパニック。

私はこの話を聞いて爆笑しました。

武士道とは、

恐怖がないことではない。

恐怖があっても落ち着いて見えることなのかもしれません。


テト様から学んだ武士道

私はテトからたくさんのことを学びました。

自分を信頼すること。

相手をよく観察すること。

危険なら逃げること。

無理をしないこと。

しかし愛は惜しまないこと。

信頼する相手には全力で甘えること。

そして、

今この瞬間を生きること。

猫は未来を心配しません。

過去を後悔しません。

ただ今を生きています。

それは禅そのものです。

読者の皆さまへ

もしこの長い文章を最後まで読んでくださったなら、

ありがとうございます。


葉隠も。

武士道も。

克己心も。

実はそんなに難しいものではないのかもしれません。


まずは、

空を見てください。

深呼吸してみてください。

何かを食べた時に、

美味しいと思ってください。

一日に一回笑ってください。


そして、

インナーセルフと対話してみてください。

その声は、

意外と優しく、

意外と賢いかもしれません。

そして最後に。

私の武士道の師匠からの教えをお伝えします。

「猫になれ。以上。」

テト様より。

























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Bushido in Everyday Life: Self-Mastery, Resilience, and Living with Grace